和田敏子さん(83)
旅館の女将として
―― お姉さんの木暮実千代さんが旅館「和可菜」を購入したのが昭和二十八年。それからの和田さんはどのように過ごされたのでしょうか?
和田 この旅館は、その年の暮れに買って、翌年の五月まで空き家にしていたんです。当時、神楽坂は花柳界が盛んで、芸者さんが四百人くらいいて。そのために、ここだけ真っ暗にするのは困るということで、私がたまたまいたから来ることになって。ここら辺は全部町屋で、旅館はうちだけでした。昭和二十九年の五月のことです。
―― 旅館を始められて、いかがでしたか?
和田 何しろ商売なんて、わけ分かりませんからね。経理なんか、女の人が来てくれて、私は伝票を切っておくだけでよかったの。その女の人が、帳簿の一番上の下で出と入りだけ決めて、途中の部分はやらないわけ。だから、全然どうなっているか私はわからない。
なのに、税務調査のとき、税務署員が「何でお金がないのに寿司をとったんだ」などと聞くんです。お金がないのに、なぜかお寿司をとってあるんです。その彼女がやってしまったんですよ、全部。だから、私に言われても分からないんだけれど。何回事情を説明しても、税務署はうんと言わない。それに、私についていた経理の先生は、税務署あがりだったから、税務署と一緒になって私を攻めるからどうしようもない。お金もないのに、なぜお寿司を買ったかって。だから、自分で経理を覚えたの。いろんな失敗をしながら覚えていきました。
―― 税務署の立ち入りって、そんなに頻繁にはありませんよね?
和田 当時はしょっちゅうあったんです。今はありませんけどね。だから、税務署にはしょっちゅういじめられました。毎年、税務署員が突然来ましたね。四谷の税務署を、朝礼か何かを終えてから出てきて、ここに着くのが十時半ごろ。だから、それくらいの時間に鞄をもった男の人が来ると、裏からさっと逃げてましたよ。立ち入り調査って、今はあまりないけれど、当時は五月の決算と暮れに来ていました。でも、経済的理由からか、そのうち来なくなりましてね、そのときは電話して「なぜ来ない」って聞きましたよ。そしたら、おたくのようなことこは、こちらも人手がないからやってられないって。失礼しちゃうわよね。しょっちゅう立ち入り調査があった時代は、私の親戚で呉服屋さんをやっているところなんかは、税務署がお客の数を一日中数えていたりとかね、昔は大変でした。
―― 当時の神楽坂はどんな感じでしたか?
和田 当時の神楽坂は花柳界。普通の社会とちょっと違うのよね。
この近くの地主さんのところに用があって近所の女将さんと行くというときも、私は飛び出していくけれど、この辺の人はすぐ近くの場所でもハイヤーで行く。寄り合いなんかのときも、私は当然のように座布団に座っているのだけども、みんな座布団には座らない。もともと芸者衆だった人たちだから、べったりと床に座って大声で話をする。昔の芸者さんは、宴会で大勢いる中でも話をしなければいけないから、大声で話すのよね。
ここのすぐ近くで火事があったことがあったんだけれど、それが朝の四時くらいだったのに、そういった人たちは、びしっと身仕度しているんです。ちゃんと帯まで締めてね。寝る前に枕元に置いておいて、さっと帯も締めて出てくるんです。びっくりした。だから、パジャマで出てきたのは私だけ。そのときは、びっくりして帯を締めましたけれどね。そのときは、朝、叩いても起きないようなお客さんも鞄を持って出てきたりして、おもしろかったわ(笑)。
火事が終わると、すぐにみんな家にばっと帰って静かになっちゃう。いつまでぐじぐじしない。普通の――杉並辺りの――女将さんとは気持ちを変えないといけないの。
旅館を始めた年の八月、あまりにもどうしようもないので、有名な人相身のところに行ったの。そうしたら、「今年いっぱい我慢すれば、お客が来るから」って。それで百枚案内状を出したら、一人だけ来てくれた。その方は、静岡の方でした。今は新幹線があるから、その日の家に帰れるけれど、当時はないので静岡くらいの人でも泊まるんです。そして、その方が良い会社を紹介してくれて、その時期の末からずっと使ってくれた。それで何とかやっていたんです。
そして、ホン書き旅館へ
―― 最初は、ホン書きさんだけでなく、一般の泊まり客も多かったんですね?
和田 そうなんです。受験シーズンには、受験生の宿もやってたんです。ここは、早稲田も、法政も、明治も近いし、理科大もすぐそばですからね。受験生は田舎から出てくるから大変。早稲田駅で降りて、早稲田口から出て歩いていたら、また早稲田駅に着いちゃったたりとか。ある男の子なんだけど、お母さんが全部荷物を持って、何から何までやってあげて。そうしたら、やっぱり慶應を落っこっちゃって。でも、次の年に一人で来たら、受かりましたね。おもしろいのは、なぜか、女の子は小さな包み1つなのに、男の子はこーんな大きい鞄に何やら詰め込んで(笑)。きっと、衣装とかを全部持ってくるんでしょうね。真っ赤なブレザーなんか着ちゃって、男の子が。
でも途中から作家さんだけで。テレビもできて、忙しくなって。今のご時世ではないけれど、昔は一年間貸し切りでお金を出してくれました。長く滞在されると、こちらもだんだんその作家さんの好みも分かるようになりますし。――今、山田洋次先生はうちでしか書けないって言ってくださって。村松友視さんがそのとき学生さんで、おじの村松道平さんが本を書かれるから、うちによくお小遣いをもらいに来たそうですよ。先生の原稿取りをやってらしたの。道平さんがホン書きさんの初めですよ。そのうち、東映がホン書きさんを入れたりしてくれて。
当時は、東映では市川右太衛門、片岡千恵蔵がトップで、まだ金之助も裕次郎もいなかった。時代劇が大変に盛んなとき。その時は、ホン書きさんが思うように書けないということがあって。右太衛門が戦うシーンで、帽子も落ちちゃいけない。スターだからね。そんな馬鹿な話はないって私に嘆くけれど、どうしようもない。支払いも、当時は振込なんかじゃなくて、練馬の撮影所にお会計を直接取りにいくといっていたんです。その時は、前の日から水も飲まずに行くの。なぜかというと、練馬の駅から撮影所まで、一面畑。途中でお手洗いなんか行けないのよ。当時のホン書きさんというのは、大体一週間で書きあげるのね。四日遊んで、あとの二日で書いちゃう。原稿用紙を広げて「一幕一場」って書く。それから先は、いつまでたっても、「一幕一場」って書いてあるまま。全然進まないんですよ。それを、最後の二日間でばーっと。こうして見ているといろんな書き方があって、根をつめて書きすぎてしまって、削るのに何日もかかってしまう人もいるのよね。
流行作家では、野坂昭如さんが最初からのお客様でした。先生は新潮社の「新潮クラブ」というところに籠もるんですけど、樋を伝ってうちに逃げてくる。先生が最も盛んなころは各社が詰めるんだけど、みんな寝ずに詰めて大変だった。野坂先生が逃げると、一緒になってぱーっと逃げてくる。
―― 逃げていらして、ここで原稿を?
和田 そう。ここで書いて、渡して帰るんです。あの先生はビールしか飲まないのだけれど、ビールを飲みながら書いて、あまりものは召し上がらない。だから、何処かでご馳走が出ると、包んで持ってきて私にくれるのよ。当時はファクスがないから、先生の原稿とりの担当者はみんな、寝ないでここで待ってる。それが、あるとき、新入りの男の子がいたんだけれど、まずお風呂に入って、ビール飲んで寝ちゃうんです。私は「おかしいな」と思いましたよ、みんなは寝ずに待っているんですから。案の定、会社から「原稿取れたか?」と聞かれても、「いえ、取れません」て。でも、もう先生はいない。夜中に出ていっちゃうんだからね。だから、私がみんな教えたの。「こういうときは寝ちゃダメなんだ」って。
その他にも、この先に、田原屋という洋食屋さんの上に喫茶店があったんですが、「そこで待たせてくれ」という編集者には、絶対に原稿を渡さないです。書けない日は、そこで待たせて、そのまま先生は逃げちゃう。原稿が取れなくて、泣く子もよくいて、それを見ると可哀想になっちゃう。そうかと思うと、綺麗なお姉さんが玄関で待ちながら、本を読んでいると、その方にはぱっと渡しちゃうの。だから、なかなか原稿がとれない編集者には、「おたくには、綺麗になお姉さんはいないの?」と聞くのよね(笑)。
ホント、いろんな先生が入りましたね。「仁義なき戦い」とかね、いろいろいい物を書いてくれました。そのうち、テレビが出てきて、今度はテレビ局が入ってくださって。「ダイヤル110番」とか「七刑(七人の刑事)」とかね。テレビはとても忙しかった、毎週ですからね。映画みたいに何日もかけません。ご飯を食べる暇がないから、おにぎりを片手に持たせてあげて。昭和三〇年くらいですかね。
当時からうちは朝食しかつけなかったんです。夕食をつけるというと、板前さんを入れることになる。このような小さいところだと、お客さんがいなくても冷蔵庫にいろいろと用意したりしなきゃいけないから大変なの。だから最初から朝食だけ。それも、普通の人は八時くらいにご飯ですけれど、作家さんは十時や十一時。そうすると両方のお客さんは無理ですよね。それに、ホン書きさんは、夜に書くでしょう。だから、普通のお客さんと一緒だと、私が参っちゃう。それで、ホン書きさん専用になって。当時はホン書きさんがたくさん来ました。当時は会社がどんどんお金を出しますからね。(石原)裕次郎の脚本を書く人は大変でしたよ、忙しくて。旅館をやっていて、恋愛感情はなかったかって、よく聞かれるんですけれど、それはないんです。そういうことすると、お勘定がとれないでしょ。だから、その辺はちゃんとしておかないと。お勘定がとれなければ、やっていけませんから。
でも、四十代、五十代のころは、結婚したくなっちゃったんです。仕事が嫌でね。お見合いもしたけど、やっぱりダメね。仕事をもっていると、何でも自分でできちゃうし。
―― ほっとかない人がいそうですけどね(笑)。この旅館で書かれた作品は、やはりご覧になりますか?
和田 そうね。ウチでお書きになったものは、必ず分かります。癖が分かったりしてね。ウチの親戚はテレビで俳優さんを見るけれど、私は監督さんを見るんです。
―― やはり、ここに籠もると筆の進み方が違うんでしょうか?
和田 そうなんでしょうね。家にいると、家の雑用とか、人が来たりとかあるんじゃないですか? でも、こういうところだと否応なしに書かなきゃいけない。昔は、こういうところじゃなくて温泉場で書かせたんです。でもそうすると、遊んでばかりで書かないんですよ。プロデューサーが行くと、何も書いていないという状態。で、私がこの仕事を始めた頃に、都内で書くようになったんです。だから、ちょうどいいときだったんでしょうね。この部屋でなければ書けないと言う人もいて。石堂さんて方はクラシックを聴きながら書くんです。クラシックってヤマ(盛り上がり)があるでしょ。だから、そこにくると、私も隣の部屋で「うるさい!」ってどなるの(笑)。
夜になるとお夜食をとられる書き手さんがいて、近所の五十番(中華料理店)のおまんじゅうをとられるんです。それで「今夜は肉まんにしようか、今日はあんまんにしようか……」と考えるんだけど、ある時、ある作家さんが、自分の書いた原作と全然違う内容のものを監督さんが作っちゃって、それを「肉まんだと思って食べたら、あんまんだった」感じだって(笑)。ここにあまり女性が立ち寄ることはありませんでしたが、この先の喫茶店に芸者がたむろすることがあるんです。ホン書きさんは、個々には芸者さんを呼べないから、昼間にそういう喫茶店に寄って芸者衆と友達になる。そうすると、夜空いた時間に芸者が「先生、先生」って遊びに来るんです。何で先生がいると分かるかというと、ハンガーにパンツを掛けて出しておく。そうすると先生がいるって(笑)。その喫茶店も、今はないんですけれども。
――旅館の組合の集まりでの苦労話とか、ありますか?
和田 寄り合いのときに、旅館の女将さんたちが出てきて座っているところに、保健所のお偉いさんが出てきた。そこで組合長が「起立、礼」っていうんですよ。だから私が言ったんです「何でこちらがお辞儀しなきゃいけないんですか? あっちがするんじゃないですか。みんな忙しいところを出て来てるのに。私たちが頭を下げることないでしょ」って。そしたら、みんな仰天しちゃって。旅館の女将さんは、そんなこと言いませんからね。私は、すぐかっとなるの。その場は「まあまあ」って収まったんですけど。それで、帰りにバスを待っていたら、みんなが私の前を通りかかって「礼!」ってお辞儀して(笑)。
――すごい話ですねえ(笑)。
和田 今はしませんけどね。当時は若かったから、燃えるんです。
―― (笑)山田洋次先生との最初の出会いというのは?
和田 山田先生は以前、ホンを書くのに使っていた赤坂の旅館をやめたので、若いホン書きさんが、「山田先生が探してる」って教えてくれたんです。で、今のうちにと、姉のところに行って「何とかして、きっかけをつくってほしい」と頼んで。それでプロデューサーが会議で今日は京王プラザにいるという情報を聞いたので、その会場までいって話をしたんです。そうしたら、二、三日して下見にきて。緊張しました。でも、気に入ってくれて。私が六白なんです。山田先生もプロデューサーも、一緒にやってる朝間さんも六白。星の巡り合わせなんですね。神楽坂は、やっぱり赤坂よりも楽なんですって。赤坂はいいところもあるけれども、悪いところがあってね――学生が行くところとか。この神楽坂に「翁」という蕎麦屋があるんですが、そこに先生が入っていったら、バイト学生が「山田先生だ」って気づいて。そのまま奥の居間に通されて、それからそこでご飯を食べながら会議をするようになったそうですよ。
「男はつらいよ」は一年に二回やっていました。夏に書かれたのはお正月に、お正月に書いたもの熱い夏の盛りに。
―― 他にはどんな方が?
和田 中島らもさんが来たときなんか、魚くさいのね。
だから、うちのリボン(犬)は喜んで一緒に寝ちゃったりね。らもさんに、朝、お食事を出すと、こんなもの食べたことないっておっしゃる。「どんなもの食べてるんですか?」って聞くと、コンビニのおにぎりか、サンドイッチくらいだって。だからこんなご馳走見たことないって。……たいしたご馳走でもないのに(笑)。

姉・木暮実千代の思い出
―― お姉さん(木暮実千代)の思い出には、どういったものがありますか?
和田 姉は、下関の学校を出ているんです。彦島という小さな島から学校に、船で行くんです。もともとは東京の人間なんですけど、父親がそちらにいくことになって。だから、姉たちは玄界灘で泳いだけど、私は生まれてすぐ、本家にもらわれたからトンボも見たことがなかったんですけれど。
うちの姉は話がうまかったから、選挙の応援演説をよく頼まれたんですよ。三洋電機がついていましたから、前尾繁三郎さんが出馬するときは必ず呼ばれました。先生は丹後宮津の方なので、先生自身は選挙だといってもすぐ帰れない。だから姉たちが先に行って、姉と奥さんが方々を歩くんです。うちの姉はわけも分からず叫ぶんですけれど、姪が勤めていた会社に着いたときなんかは、開口一番「労働者の皆さん!」って言うんですよ。だから、私が「あなたね、今日は自民党の候補者の応援に来てるんだから『労働者の皆さん』はだめよ」って(笑)。
――(爆笑)
和田 普通、「本日はお呼び頂きまして……」って言うもんでしょ、でも姉は候補者を指して「若き勇姿、○○○○~!!!」って叫ぶ。そうすると観客が「ワー!」と盛り上がる。うまいことを言うんです。「若きジャガー!!!」とかね。それで「あんた、よくジャガーって知ってるわね」っていうと、「だって田園調布に帰るときにジャガーの販売店が五反田にあって、それを見ているから知ってんのよ」って。創価学会とか、立正佼成会に頼まれたときは、よく入れって言われる。そうすると姉は「私は洗礼を受けているから、妹ならいいわよ」って。あるとき、奈良漬けが届いて、たしかに私の名前が書かれているから食べちゃったんですよ。そうしたら、おばさんが五、六人来て、「あなたのお姉さんが、妹さんが入るって言っていたから入れ」って。私が「絶対ダメだ」と言ったら、「奈良から奈良漬けを送った」って。だけど、今さら「あれは食べました」とは言えないでしょう。だから、「そんなものは届きませんでした」って言い張って(笑)。
――お姉さまが洗礼を受けたというのは本当ですか?
和田 彼女はクリスチャンの学校に行っていました。でも、本当に洗礼を受けたかどうかは分かりません。拝んでいるところなんて、見たことないから。
――話は変わりますが、不思議な経験はありますか? 例えば、お化けをみたとか。
和田 亡くなった主人が部屋に入ってきたことはありますよ。私が寝ていたらね、何か気配がして戸を開けたんです。そうしたら、それから毎日、主人が枕元に座るんです。で、十日くらいして、お寺さんに来てもらって拝んでいただいたんです。聞けば、主人は別れてから死んだんですが、死んでからまだお墓ができていなくて、よそにお骨を預けたらしいの。それがとても嫌だったらしいんです。それで私の所に出てきたと。
―― だんな様が亡くなったのはご存じだったんですか。
和田 知ってましたね。
―― じゃあ、亡くなっただんな様が現れたとき、どんな気持ちだったんですか?
和田 何で来たんだろうって思いましたよ。
―― (笑)またあらためて、今度はそのお話を聞かせてください。
■編集後記■
ホン書き旅館として知られる、神楽坂の旅館「和可菜」。前回発行の季刊誌(本誌)では、「和可菜」の女将・和田敏子さんのお生まれから、お姉さんが旅館を購入されるまでをお伺いしました。
一回では書ききれなかった、その後の和田さんの思い出。慣れない仕事に苦労された思い出から、ホン書きさんと呼ばれるそうそうたる人々が「和可菜」を常宿とするまでの来し方をお聞きしました。(わぐり)
