市井の昭和史

小嶋孝子さん(85)

東京に憧れて

―― お生まれはどちらですか。
孝子 静岡県の黒石というところなんです。赤石山脈の一番山裾で、掛川で乗り換えて、森というところからもうすこし奥の、山あり谷ありの場所です。棚田というほどではないですけれど、百表ほどとれる田んぼと、豚、牛の家畜もいました。あと少しの田畑を貸していました。その田舎での私の実家は、比較的大きな農家でしたね。田植え、茶摘、稲刈りの時は、五、六人の人たちが手伝いに来ていましたね。二十歳までそこにいました。
―― 東京の人と結婚してこちらに住むようになったのですか。
孝子 そうですね、私の祖父が、両親を亡くした子を引き取って育てたのね。その子が二十歳になった時、東京の酒屋に丁稚奉公にいき、その酒屋を盛りたてたの。本所というところでね。その人の息子が、年頃になったから、私の家には、姉妹が六人いましたから一人くれないか、ということでね。はじめは、私の姉を、と思っていたんでしょ。ところがその姉は、十九で隣村の大きなお百姓さんに貰われていっちゃったの。それじゃ、ということで私になったんでしょう。私は、東京に憧れがあったのね、東京はいいところだと思っていたの。女学校三年の時に、修学旅行で、上野、浅草、東京、宮城(皇居)そして日光にも行ったのね。東京にも何泊かして、その時、その叔父さんに連れられて、本所の家にも行ったの。
―― (麻子)知って(将来の相手)行ったの?
孝子 全然知らなかったのよ。うちの息子です、と紹介されて、「こんにちわ」って頭下げただけですもの。それだけよ。でも、親たちでは、話が進められていたんでしょうね。田植えの手伝いに来た近所の人たちに、「孝子さんは、東京に行くんですってね」なんて言われてね。女学校を卒業して、お裁縫を一年やって、当時もう日支事変が始っていたから、男子は「青年団」に入って軍事教練、女子は「女子青年団」で、慰問袋も作りましたね。そして、なにげなく自分も(東京に)行くのかなあ、と思ったの。東京はいいとこだなあ、と思っていましたから。旅行で、綺麗な所しか見ていなかったから、本人(結婚相手)よりも、東京に憧れて出て来ちゃったの。
―― (麻子)疑うこともなく? 嫁に行くなら、そこでもいいかなあ、と思ったの。
孝子 そうね、くれっていうならね。東京はいいとこだし、行ってみようかなー、ってね。
 結婚式には、父親は、入院していたので、母と弟が来てくれたわね。こちらの兄弟は五人、妹が三人に一番下が、七五三を終えたばかりの弟ね。気軽に考えていたのね。さて、来たところが、ガスでの煮炊きでしょ。田舎では薪でやっていましたからね。電話だって商売(酒屋)しているから、出てもらわなくては困るって言われてね。夕方は、お客さんが来るから、店番もしなければいけない、着物もきちんと着ていなくてはいけない、窮屈でね。階段だって、狭くて急でしょ。広い田舎で、のんびり生活していましたからびっくり。
―― (麻子)東京は、あまりの狭さにびっくり?
孝子 そう、狭くて、窮屈でびっくりね。それからね、お酒は樽でしょ。樽がずらっと並んでいるの。その樽から、漏斗をあててビンに詰めるのが容易ではないの。いやでね、二階へ逃げて行きたかったわね。

毎晩、防空壕へ

―― (麻子)それがどのくらい続いたの、子どもができるまで?
孝子 そうね、私が結婚したのは、昭和十四年でしょ、洋子(娘)が生れたのが昭和十六年だから、そうだわね。そのうち、大東亜戦争が始まり、世の中がばたばたしてきましたからね。配給制になって、酒屋も合併になって、うちのお店もたたんで、お隣りの大きな酒屋さんと一緒になって、おじいさんがそっちへ行くことになったの。お父さん(夫)はまだ若かったから、何かしなければということで、戦時中で注射器が沢山製造されたのね。それに目盛がついているでしょ、その目盛をつける仕事を始めたの。五グラム、十グラム、という具合にね。フッ化水素と墨を混ぜて筋をつけるんですよ。それの機械を二台買って、主人が習ってきて、独り立ちできるようになったら、空襲で焼かれちゃったの。防空壕に、機械を入れたんだけれどね、後で見に行ったら真っ赤にさびちゃってね、使い物にならないの。子どもが生れてから、戦争、戦争でしょ、毎晩、灯火管制の中、B二九が来て焼夷弾を落としていくでしょ。子どもを負ぶって、縁の下に掘った防空壕に逃げるの。
―― (麻子)毎晩、そこに入るの?
孝子 最初のうちはね、「火ばたき」って言ってね、はたきのように、竹の先に、縄の房をつけたもので、焼夷弾が落ちて火事になったら、その「火ばたき」でたたいて消せ、という練習ばっかりを隣組でやらされましたよ。商売どころではないのよね。そんなことが二年くらい続いたわね。そのうち丸焼けになってしまったでしょ。
―― それは、三月十日の東京大空襲ですか。
孝子 そうなの、丸焼けですよ。その時は、すごい風でね。亀戸の方が真っ赤な火が燃え盛っていてね、風に逆巻いて火は来るのね。私たち家族は、墨田公園に逃げたの。後から、おじいさんと主人が、自転車に柳行李を二つくくり付けて来たの。私は、子どもを負ぶって、子どもに防空頭巾をかぶせて、ねんねこを着て、三月十日で、寒かったですからね。その上に毛布をかぶり、更に薄い蒲団をかぶせてね。瓦がどんどん落ちてきますからね。風が強くて歩けないのよ。途中で、蒲団も捨ててね。そうやって、みめぐりさまの池のほとりで一晩明かしたんですけどね、松屋のほうから火の粉がどんどん降ってくるのを消していましたよ、一晩中ね。夜が明けたんで、姑の実家が農家で、水元公園の入口にあったので、そっちへ逃げたの。南千住を通ったかな、線路伝いにね。命からがら、それでも家族全員八人助かりましたからね。全部焼けちゃいました。二日ぐらいして、火もおさまったので、焼けた自宅を見に行ったのね。金庫だけ残っているのね。金庫の中の桐箱だけ助かりましたね。酒屋は、炭も扱っていたのね。軒先に置いてあった炭が、真っ赤に焼けていましたね。一ヶ月、姑の実家で八人いましたが、それ以上いられないでしょ。私の実家、静岡へ、やっと汽車に乗ってね、世話になったんですよ。そのうちに、私の主人と上の妹二人は、水元に空家があるというので、東京に戻ったのね。私の実家といっても肩身が狭いんですよね。私の弟が実家を継いだんですけれど、召集されて中支に行って、下の弟が予科練で戦地に行っているという状況でしょ、残った妹たちが牛をひっぱって、かろうじて農家をやっているわけでしょ。そこへ私たちが来たって、いい顔するわけないでしょ。東京の人は、何にもできないんだから。

戦争が終わって

―― 終戦は、どこで迎えましたか。
孝子 東京でしたね。私の実家にも居づらくて、私と洋子は、主人のところに帰ったんです。しばらく、舅と弟だけが残ったんだけれど、実家の母は、違うんじゃないか、私と洋子が残るんならわかるけれど、という気持があったのね、舅とよくけんかしたんですね。そんなもんだから、東京へ戻ってきてしまったのね。さあ、それからが大変ですよ。私は、針の筵ですよ。何かあると、義父は、坊主憎くけりゃ袈裟まで憎いんでしょう、「お前の親は何をしてくれた!」って言われてね。何もしてくれないわけじゃなかったんですよ。丸焼けになってしまったから、蒲団を用意してくれたりしたんですもの。
―― 終戦までには、再び家族全員揃ったわけですね。
孝子 ボロ屋でしたけど、家はありましたからね。主人がね、終戦の翌年、結核で亡くなってしまったんですよ。疲れきったんでしょうね。勝手のわからないところのお葬式でしょう。物もないし、ご飯を炊いて、配給の鮭缶で混ぜご飯を作りましたね。
―― その時、おいくつでしたか?
孝子 主人は、三十三歳で亡くなりましたから、私は二十七歳、洋子が四歳でしたね。それからが大変、物がないでしょ。中川の土手の脇に空家を見つけたから、水元の新宿というところにね、そこへ、家を構えたの。土手に、とうもろこしやかぼちゃを植えてね。食べものには苦労しましたよ。百姓の子に生れて、どうしてこんなに苦労しなくちゃならないのかと思いましたよ。送ってもらえないし、取りに行けないし。
 うちは、家族が多いでしょ、一日おきに、柏にお芋を買いに行きましたよ。柏は、甘いおいしいお芋がある、ということでね。
―― (麻子)お金で買うの?
孝子 そう、お金を払うの。私たちは、丸焼けになっちゃたから物はないでしょ。柏の駅から五分ぐらいのところにある大きな農家のおばあさんがね、私と姑と行くでしょ、可愛そうに思うんでしょうね、お芋をふかしておいてくれたりね、おやつに食べるようにね。お金は、すべて姑が払ってるから、いくらかはわからないけれどね。しょえるだけしょって帰ってくるの。金町の駅で、おじいさんが、リヤカーをひいて待ってくれているの。ある時、義妹が一緒に行ってくれると言うので出かけたのね。成田で乗り換えて八日町というところに、もう海岸ですよ。それも、行きずりの人に、どちらに買いに行かれるんですか、と聞いたら、そこには、おいしいお芋があるって言うでしょ、それで付いて行ったの。そこで、買って駅まで戻ろうとしたんだけれど、暗くなってしまったの。これでは帰れない、ということで、さっきお芋を買ったお家まで戻って、その家に泊まったことがあるの。翌日、お弁当作ってくれてね、貨車に乗って帰ってきましたよ。

死のうと思ったことも

―― (麻子)好い人でよかったね。
孝子 そうね。松林がずーっとあって、後から考えると、ぶっそうなとこねー。そんな思いもしましたよ。農家に生れて食べもので苦労するんだから、情けなくなっちゃた。洋子や義弟たちに「お昼ですよー」と言ったって、さつま芋のおかゆだったら、食べるんだけれども、大根やら他のだと、すーっといなくなっちゃうの。お腹がすいていても食べたくないんでしょうね。ですから、お芋は、一生懸命買いに行きましたよ。
 ある時、死のうと思ったの。ご飯の変わりに、豆が配給になっていたの。朝起きて、ご飯じゃないんですよ。お芋を切って、お釜で蒸かすんですけれどね、義妹がしっかりしていて、ちゃんと数えてあるの、一つでも減らすとすぐわかるようになっているの。そういうきびしい時代だったの。あんまりお腹がすいて、お腹すいて、生のきゅうりだろうが、なすだろうが、むしゃむしゃ食べられるような時に、食べものがないわけね。で、配給になった豆を、七輪をお勝手の外にだして、炒って、そおっと大事に包んで、行李の中にいれといたの、それを私が後で少しづつ食べようと思ってね。それが見つかって、まー、おじいさんに叱られて、「みんな苦しいのに、自分だけそんなことして」ってね。働くのは私でしょ、食べものは、年寄りも子どもも、みんな平等に分けるから、私は、お腹がすいてしょうがなかったの。悪いこととは知りながらもね、とっときがきくから炒ってしまったのが見つかって、怒られてねー。その時飛び出しちゃったの。田舎へ帰ろうと思って、でも、お金一銭も持ってないから汽車にも乗れない、じゃ、橋の上から飛び込んじゃおうと石を拾って泣き泣き出てったら、義妹が追っかけてきて、「お姉さん、洋子がいるんだから、短気をおこしちゃいけない」って、うちに戻ってくれって、ひっぱるわけ。なだめられて戻ってきたけれども、その時は、ほんとに死ぬ覚悟でね、家に帰れないから、死んでもいいと思いました。そんなこともありましたね。主人がいないからねえ。おじいさんに怒られたら、立つ瀬がないじゃないですか。
 二十年に戦災にあって丸焼け、二十一年に、主人が亡くなったでしょ。二十二年には、洪水ですよ。土手で野菜を作っていたでしょ。肥やしをやって、丹精して、とうもろこしが、ビールのケース二箱ぐらい収穫できたんです。粉にして、パンでもつくりましょ、と思ってね。そしたら、九月に台風(カスリン台風)が来て、利根川の堤防が決壊したため、中川も氾濫したんですよ。ここまで水は来ないだろうと、押入れの上の段に、そのとうもろこしを置いて出たのね。
洋子(孝子さんの娘) 大水で、皆で二階のある家に避難していたら、進駐軍の人が来て、船に乗れって言うのよ。それで皆、着の身着のままで船に乗せられて、中川大橋でトラックに乗り換えて着いた所が、千束小学校だったの。十五日以上いましたね。その時の進駐軍の人が黒人だったのよ。怖くてね。言葉はわからないでしょ。
孝子 新宿の畳屋さんに、親戚だから、そこに避難したの。畳屋さんだから、一階が土間になっているでしょ、仕事するところだから。水がどんどん溢れてね、そこまで船が入ってきて、「降りて来い」って、二階にいる私たちに手招きするの。日本のおまわりさんが一人いたから、乗ったの。
洋子 よくそこで暮していたわよね。皆で雑魚寝してね。
―― (麻子)今も体育館で避難生活する、あんな感じ?
洋子 もっとひどかったわね。ただ、まだ寒くなかったからね。
孝子 粗莚敷いてね。
―― (麻子)食べものは?
孝子 部屋の人たちの分を、バケツに入れてくれて、それを分けるの。お芋を一人一個、手も洗わずに食べましたよ。後に、新宿に、お殿様が休んだという、東屋という大きな酒屋さんがあって、その蔵に、寝泊りさせてもらいましたよ。
洋子 一家全員で、水がひけるまでね。そこから、年中掃除に行ってたわよね。
孝子 バケツもって、家を洗いにね。水をかぶった後は、泥だらけで汚いの。DDTで消毒、真白になってね。とうもろこしから芽がでてしまっていてね、使い物にならなくなっちゃってね。パンにでもと思っていたのにねー。
―― その後も、ずーっと家事をしていたんですか。
孝子 やっと、川向こうの日本製紙の工場で、臨時で人が欲しいからという手づるがあって、二年くらいね。四国の工場が閉鎖になって、そこの人たちが、本社に来るので、臨時の人たちは首になっちゃったのね。その後、近くの鉄工所で、一年くらい働いたかしら。私としては、こんなことしていられない、何かないかと、民生委員の人に頼んで、学校給食の仕事をするようになったの。それが、お父さん(夫)が亡くなってから十年目ね。
―― 区の職員として働き始めた時も、お姑さんたちと一緒に?。
孝子 そうです。洋子が、中学三年生の時に、正職員として採用になったから、月給を貰ったの。一番最初の月給が、九千三百円ぐらいだったかな、嬉しかったねえ。結婚してから私は、お金を持たされたことも経済をまかされたことないの。舅が握っていて、義妹が家計簿つけていましたね。私は、お小遣い二十円ぐらいだったかな、貰っていました。時々その妹が、たまりかねて工面してくれることがありましたね。小姑が、「お姉さん可愛そうだ」って言うくらいでしたから。おじいさん(舅)がいるところでは、洋子に小遣いもやれませんでした。孫なんだけれど、あんまり可愛がってもらいませんでしたね。お祖父さんにしてみれば、頼りにしていた息子に早くに死なれ、隠居の年になっても、家族の心配をしなければならない責任感から、厳しくなったのかもしれませんね。
―― 仕事も定年まで勤めあげられて、退職後は?
孝子 それからはね、さんざん働いたから「遊びましょう」って。踊りやったり、お習字やったり、いろんなことやりましけれど、たった十年遊んだだけで、足を痛めてしまいましたのでね。でも、十年は、たっぷり遊びました。私の足が不自由になって、子どもには気の毒だけど、一緒に暮せて、ありがたいですよね。精神的にはとても落ち着いています。いろいろありましたけど、今は気ままに暮せて、楽させてもらっています。終わり良ければ全て良しですね。

浅草の三社祭の時、お邪魔させていただいているお家のおばあ様、孝子さんからお話を伺いました。下町で生まれ育ったような、さっぱりとした気風のよい方。多くのご苦労があったでしょうに、そのご苦労を少しも感じさせない、明るく、前向きな生き方は、お手本にしたいと思います。孝子さんの「終わりよければ、すべて良しです」、との言葉には、ご自身の歩んできた人生の重みが、ずんと胸に響いたと同時に、潔さを感じました。その潔さが孝子さんのオーラとなっているのでしょう。(副枝)