中井辰子さん(91)

中井 辰子さん(91)
大正2年生まれ
日時:平成16年8月15日
場所:鳥取県境港市
聴き手:坂本理抄(NPO「昭和の記憶」ボランティアスタッフ)

●尋常小学校を卒業するとまもなく、中井精(まさし)と結婚。戦前に一男三女を、戦後に一女二男を産む。松山市を経て鳥取県境港市へ移住。夫の興した水産加工業「かねまん水産」を支え、引退後は俳句の道に精進する。二冊の句集を出し、地方新聞にも大きく取り上げられた。聴き手、坂本の祖母。
■結婚、大家族■
●宇和海に突き出た風光明媚な小半島、西海町は、海と山に囲まれた半農半漁の村。山の斜面を開墾した段々畑で、芋、麦、野菜を作った。当事は下肥えを入れた桶の天秤棒を肩で担ぎ、きつい傾斜を上った。収穫した芋麦も担ぎ下ろした。牛馬は使えないのですべて人力。厳しい畑仕事と家事。一時も休む暇がない重労働を耐え抜く逞しさだった。
中井 嫁に行く前は怖かった。中井の家はしつけや礼儀に厳しいけんど堅い(=堅実な)家やけん、と父親が決めた。まだ14歳。子どもじゃったけん、何もわからず従ごうていった。大舅、大姑、姑のリカおばあさん、義妹、義弟のいる大所帯に嫁いだ。一番はおじいさん、おばあさん、親。口返事はひとつもすられん。長男の嫁は辛抱せにゃな。耐えてその家に従うのが務めやけん。
中井家は船を持ち、漁師を雇ってきびなご網やらいろいろの漁もしたりな。家督持ちで畑も広かったけん、食べるものに不自由はせなんだ(=しなかった)。けんど仕事が多てな、畑仕事に大勢の家族の面倒に、我ながらよく辛抱したわ。小さな義弟妹は私をよく慕うてくれてね。まだ10代の若い義姉さんじゃった。
── 今とは全然違うね。お嫁に行ってからが本当の苦労の始まり…。
中井 けど、辛くても泣いて実家へ帰ったことは一度もなかったよ。何事も「時代」というものがあるのじゃけんね。昔は一にも二にも辛抱。今の人は、辛抱ということをせんね(=しないね)。辛抱はもう美徳ではないのやけど…。仕事はきつくても若い時分じゃったけん、なんぼでも働けたよ。子どもを何人も産み育てながらね。
── そういえば同郷の亡くなった私のお父さんがこんな句を詠んでいたわよね。
肥えたごの 棒下ろす音 母帰り
山の畑で一日働いた母が肥えたごの天秤棒をかついで戻ってくる。帰り着いた家の前でやっと下ろした棒の、コトリという音の響き。その音を聞きつけ、「お母さんだ!」と顔を輝かせて、祖父母と留守番していた幼い兄弟たちが、ぱっと外に走り出る…。なんだか泣けてくるね…。
中井 そうよな、子どもは母親が一番。何てったって母親。母親は偉大なもんだよ。
おじいさん(夫)は船の船長だったのよ。操縦をしていたの。港の出し入れが上手でな、名船長と言われた。家にはひと月に一回戻ってくる。でも50日に一回が普通。台湾や、朝鮮、大連にも行った。外国へ行ったら3ヶ月から半年帰ってこない。
私の父親もふし(=鰹節)職人じゃった。実家にはふし作りの部屋もあったよ。ふしの仕事で台湾へ行って家を長いこと空けることが多くてね。学校を卒業した若い娘たちも、本場の台湾やパラオに行って、かつお削りを習っていた。手削りだから習得に2~3年かかる。私のおばが女工長でね。連れて行ってあげると言われていたけども、中井に嫁いだので行けなくなった。あのおばは、戦時中、パラオからの帰りの船が直撃弾を受けて亡くなったんよ。娘とだんなも同じ船で亡くなったんよ。
■蚕の話■
●養蚕は近代日本の発展の一翼を担った重要な産業。愛媛の農村でも行われていた。
中井 畑のようけ(=たくさん)ある家じゃったけん、桑の木を植えて養蚕もやっておったのよ。嫁の仕事は倍たいへんだった。春、夏の土用、秋と3回の収穫期。麦の農繁期と蚕が重なって大忙し。蚕をやってない家は麦でおしまいじゃけんどなあ。蚕の最中にお産もしたのよ。お産をして一週間も経たん3日目から仕事。縄を渡して枝ごとかけて乾かした桑の葉を枝からむしってとり、また一週間経ったら今度は麦こきの仕事も。赤ん坊は蚕の小屋の中で寝かしていた。棚を段々に積んでな、その中で蚕を飼っていたのよ。
■松山市へ転居■
── どうして松山へ引越ししたの?
中井 おじいさんの事業の関係で。花かつおやさば削り、うるめいわしの製造業を始めるのでな。長男の岩男さんもいたのに、そのころは娘二人の教育のことばかり気になって…。内泊は学問を重んじるところでね。私は女学校へ行きたかったに、家の経済のことで行けんかった。身につけた学問は財産じゃけん、取る者はおらんと思うて、息子よりも娘に学問させたかった。
── どうして娘に?
中井 女の子は結婚してからも母親を必要とするということを身を持って感じたからよ。特に娘にとって母親は一生必要な存在なんよ。
── それで子供たちを当事はめずらしかった隣保館(りんぽかん。今の幼稚園)に入れたり、師範学校(現愛媛大学付属小学校)に入れたりしたのね。
中井 学問には時期というものがある。学問するべき若い時にせなんだらいけん。どんなに貧乏しても、教育費は惜しんだらいけん。趣味のことはいつだってできるでしょ。でも学校へやるべき時にやらなんだらいけんのよ。
■特に手をかけて育てた次女■
── 確か山を売ったお金を病院代にしたって言っていたわよね。
中井 そうそう。体が弱くて病気がちだったあんたのお母さん(辰子の次女)が生後6ヶ月のときから宇和島の私立病院に連れて行ったの。
── ところで山を売るって誰に売るの?
中井 炭焼きの人。炭焼きの人は山に小屋を建ててそこで炭焼きの仕事をするのよ。
── ふーん、そうだったの。山を売るっていう話は、昔の人からよく聞くよね。
中井 売ったお金を全部病院代にしてしまったから、おばあさんからは「この娘は女学校もお嫁入りもとっくに済んだぞ」と言われたわ。
── 教育と結婚に費やすほどの大金を病院代につぎこんでしまったってことね。 まさにおばあちゃんならではの母心だね!
中井 松山で診てくれたのは、ちょうど京都からおいでたばかりじゃった姉小路先生。名前も忘れらせん。背中におぶって病院へ連れていった。『こほん』と咳ひとつしたらすぐ小児科へ連れて行った。冬は、小寒、大寒かけて、しょうが汁で乾布摩擦した。肌が赤うなるまでな。我慢強い子じゃったよ。背中に大きなやいと(=お灸)をした時も歯をくいしばって泣かずにこらえていたね。
ご挨拶がようてね。『お宅の子女ちゃんはお行儀がよろしいて。母親のおしつけがおよろしいて』と近所の人にも言われてね。松山は何でも「お」をつけるところやけんね。お銭湯に行っても『お背中流しましょう』と言うのじゃと。『お宅のお子のような娘がいたらどんなにいいでしょう』と学校の先生にも言われて嬉しかったな。貸し本屋でも小学校一年生のときに六年生の本を借りて読んでいた。
■戦時中■
中井 学童疎開で娘二人は内泊の田舎へ疎開して、長男のみ銃後を守らにゃいけんということで家におった。おじいさん(夫)は体格が悪うて徴兵検査に落ちたために兵隊には行かず、徴用にとられたの。軍隊の雑務や何かをやらされたのやな。いよいよ空襲が激しなって戦地へ行ったけんどすぐ終戦になって戻ってきたのよ。
どの家でも防空壕を床の下に掘ってな、夜は布団を持っていってそこで寝ていたのよ。しょっちゅう警報が鳴るのやもの。家の前にもコンクリの用水桶があって、緊急時に備えていた。戦争が激しくなって警戒警報が入ると、もう皆家にはいられんようになって町の共同の避難所へ行った。ぞうりと仏様とお弁当、といってもメリケン粉でこしらえた団子のようなものをいつも用意しておったの。B29はしょっちゅう上空を飛んでおって、爆弾が落とされるのも何度も見たよ。
機械類もみな国に提出させられてね。5台くらいあった花かつお製造機も1台だけになってしまった。塩も不足したので、つけものを作るときには海の塩も使った。芋のツルを取っておいたり、野原にせりやよめなを摘みに行ったり、いなごをフライパンでいって食べたりな。
住んでいた松山市の三津浜は軍の船や物資がある所なのであぶないと思いよったのに、実際に爆弾を落とされて焼けたのは旧市街の方だった。
── 原爆を落とされた広島が瀬戸内海のすぐ向こうだったけれど、うわさが伝わってきたんでしょう?
中井 うん、そうそう。町内の人らが皆、話しよったよ。大地がどろどろ動くような、がいな(=大きな)音がして、あれは一体何の音じゃろう?と皆話しよった。
── 広島と海をへだてた松山でも音がしたの?
中井 そう。地震のようなどろどろ揺れるようながいな音。あとでそれが原爆じゃったと分かった。しばらくして広島から子ども6人を連れた8人家族が松山に逃げてきて、実家がもうないので、うちで預かったこともあったよ。
■天長丸の遭難事故■
●終戦後まもなくの11月7日。内泊から宇和島へ航行する船、天長丸に岩男と義弟と乗っていたとき、宇和島の湾内に入ったところで船が転覆。九死に一生を得たが、抱いていた3歳の三女律子は波に飲まれてしまう。しけという悪天候に加え、船が定員オーバーの超満員だったことが転覆の原因らしい。
── 天長丸の話、詳しく聞かせて。
中井 船がしけで左右に揺られて窓が水面と同じになったと思った瞬間、船内に突然、潮がなだれこんできてね。そうしたら大勢の人が船外に出ようとなだれうって狭い出口へ押し寄せて、もがきながらひっぱりあいしよった。窓からも人が出て、足をひっぱりよった光景も見たよ。抱いていた律子はあっという間に波に飲まれてはぐれてしまって…。
「こらえてや、堪忍してな」と律子に言って、私はどうしても家に残されたあとの二人の娘のために生き抜かなくてはと必死になって船外に出たの。大きな波がざぶーんと来たら海底に足が届くほどじゃったよ。海底までだよ!それを必死でもがいて海上にあがるとまたじきに次の波が来る。それでまた海底におしやられてまたもがいて海上に出て大きな息をして…。
波がだいぶおさまってきたと思ったら、たくさんの死んだ人の体が立ったままの姿で縦にぷかぷか浮いておった。つかまるものが欲しくて波間に浮いているリュックにすがるけど、ごぼごぼと沈んでしまう。人にしがみつかれたこともあった。体力も尽き果てようとしたときに、目の前に板が流れて来てな、子どものときに習ったようにその板につかまって体を水平にしてみたらいつまでも浮かんでいることができたの。そうしているうちに助け舟がきて、下ろしてくれた縄につかまって助かったのよ。その船の中に岩男さんと義弟もおってな、二人は私が死んだものと思いよったそうな。
── この話は何度聞いてもすごい…。おばあちゃん、本当によく頑張ったね…。
中井 300人乗っていたのに、250人は死んでしまって、宇和島の浜に遺体がたくさん上がったのよ。テントの中にたくさん寝かされていて、律子も見つかったの。昔は天気予報もないので、しけに会うたりして遭難が多かった。遭難した人の供養塚があちこちにたくさんあったよ。松山の家におったときは、おじいさんが連れてきた下宿人や芝居小屋の人やお遍路さんをよく泊めていた。『夕べは阿弥陀さんが出やはりましたな』と言った人もあったよ。つまり幽霊のことよな。そういう話はたくさんあるよ。
つないでいた船が大しけになったとき、丘に上がりそうなほど揺さぶられている船を、小坊主が長い竿を使って沖に突き出していた話とか…。供養のお礼かしらん。
漁に行くとき丘にあがった遭難した人の死骸を見つけることがあって、そんなときは『待ちよんなれ(=待っていなさい)、もどりがけに連れていんで(=帰って)あげるけん。』というと戻るまで死体がそこにおると。魂が供養してもらいとうて、ずっとそこで待ちよるのじゃな。それでお寺でお経をあげてもろうて、埋めよった。無縁仏やけど。遭難したら連絡のしようがないのでね。見つけた人が供養していたのよ。
■かねまん水産■
●昭和33年(1959年)、46歳のとき、夫が水産加工業「かねまん水産」を立ち上げるというので鳥取県境港市へ移住。
── どうして境港という町を選んだの?
中井 貨物船の船長であちこちの港の事情に詳しかったおじいさんが、四国よりこの港町の将来性を見込んだのやね。台風もないし、地下水が豊富で、人も親切だしね。
── でもまったく知らない街に来て不安じゃなかった?
中井 おじいさんが決めたことだもの。自分で決めたことを変える人やないけんね。ついて行かなんだらしようないでしょ。添い遂げなければ。また粉骨砕身の日々…。四国から境港に来て事業を興した人らは皆働き者じゃった。裸一貫で来たでしょ。早くトラック一台持ちたい、工場を拡張したい、家も大きくしたい、そう思って、身を粉にして働いた。家族総勢で働いた。外から帰っても、荷物を置く間もなく工場へ飛んでいった。
── 今のかねまん水産があるのもおばあちゃんたちの苦労があってこそなのね。

■「朝干し、夜干し」■
中井 境港は漁場なのに、魚加工の技術は未熟じゃった。四国の人の方が技術を持っていた。今は乾燥機があるけんど、昔はすべて手仕事の天干し。乾燥が煮干しの命じゃけんね。丹精こめた天干し。ぱりぱりに堅くなるまで何度も干し上げるのよ。朝干し、夜干し…。ところが『弁当忘れても傘忘れるな』といわれるほどにわか雨の多いところでな、ぱらぱら来ようものなら、家族総出で裸足で外へ飛び出して、干している魚を大急ぎで中でしまいよった。
釜で魚を炊いて、炊き上がった魚を釜から出して棚にならべて、せいろに差しこんで、それがさめて上が少しからっとなったら、菰に移しよったの。また手混ぜもする。また乾いてきたら選別もする。それをせいろですくって棚にあげて、また干す。岩男さんと二人で菰に移しかえるのに夜中までかかって…。尺貫法の時代やから、一貫目袋に入れるのにじょうごで計って。今はすべて機械。今の人には言ってもわからんと思う…。あの頃はご飯も薪で炊きよったに。
雪の多いところで冬の寒さにはこたえた。日も出んので工場は休み。従業員は失業保険をもらいよったけど、家の者は道具の手入れや修繕、工場を拡張するための桑畑の開墾なんかで忙しかった。
もんぺと長ぐつとエプロンさえあれば何もいらんと言われるほどやった。
けど楽しいこともあったのやけんね。おじいさんと自転車で二人乗りして境の町に映画を観に行ったりね。
■俳句と花・野菜作りの余生■
●昭和54年、長男の岩男と同時期に自らもガンを患う。一家に二人ガン患者を抱えたこの時期は中井家にとって最も辛かった。長男は亡くなり、自らは一命をとりとめた。それ以来、工場の仕事を引退し、孫夫婦にゆずり、通院の日々を送りながら若い頃からやりたくてもできなかった俳句を始める。
逆縁の墓参の風や春寒し
逝きし子はとわに童子や盆灯籠
●境港市海峡俳句会に所属して20年。今では最長老となった。何事も一生懸命に取り組む努力の人。一心に俳句の道を歩み続ける。いつ訪れても、ほんのわずかの時間を見つけてはノートに向かい、呻吟し、分厚い歳時記のページを繰っている姿が見られた。どこへいくにも手帳を持参するという熱心さだった。
宿無しの小雀あわれ今朝の雪
●昔、娘や息子たちは学校の宿題で、母の作ったこの句をこっそり拝借し、先生にほめられたことがある。それは今でも笑い話の一つとなっている。
中井 ずっと娘時分から歌を作りたかった。落葉樹から実がぽとりと落ちるとはっと胸をつかれて、歌を詠みたい衝動に駆られた。でもそんな時間の余裕はいっときもなかった。
●長い間埋もれたままの才能が精進によって開花し、山陰地方の俳句大会で多く受賞。次女とその娘(坂本)の手で、平成2年、句集『うつしみ』を編集。地方新聞にも大きく取り上げられた。平成13年には二冊目の句集『四季 彩流』が編まれる。

子宝に初日のごときわが余生
老二人椅子許されて盆の寺
旅先の朝湯勤労感謝の日
曾孫も入れて十五のお年玉
母と子の綿菓子一つ菊日和
聞くことは信ずるはじめ母子草
遊泳の子に母の目の動かざる
母の日や生涯母に及ばざる
土塊を割りて名草の芽の勢い
黒潮の海万緑の岬置く
秋の野に雲の流れを見て飽かず
木の実落つ己が重さを音として
金賞の菊の寿命を惜しみけり
方言に出会うよろこび濁り酒
紅葉忌一語をさがす古き辞書
●平成14年秋、73年間連れ添った夫、精が病で逝去。自らも年々入院が多くなった。
── おばあちゃん、さびしくてもずっと俳句と花をやめないでね。
中井 うん…。花とはいつも話をしよるのよ。寒かったね、いま湯水をかけてあげるけん…。暑かったでしょう、いま日覆いをしてあげるから…。と声に出さなくても花に話しかけているのよ。慈しんでやれば花は応えてくれる。かわいがってやればより応えてくれる。どんな花でも、路傍の雑草でも、踏まれても踏まれても時期がくれば小さな花を咲かせてくれる。生命力が強いものだなあ、人間もこうありたいと思う…。
老いてなお土になじみて大根まく
■聴き手のコメント■
言葉がよどみなく溢れ出て、聴き手を飽きさせない語り口。天性のストーリーテラーです。思い出と共に胸にしまわれていた感情が生き生きと甦り、表情豊かで、時に涙ぐむことも…。長年の俳句生活のせいでしょうか、「表現」への情熱をあらためて感じました。
