最後のローカル線:二 「ここは汽車は通りません」
深名線の廃止はかねてから囁かれていたが、その廃止が九月三日だと決まったのは、今年になってからであった。JRバスへの転換が決定したのである。
百円の収益をあげるために、二千円ものコストがかかるこの大赤字線が、ほかのローカル線とともに廃止されなかったのは、その沿線の道路が整備されていなかったという事情による。
鉄道の廃止には、いくつかの抜け道があって、そのひとつに沿線道路の未整備というのがあるのだ。皮肉なことに、多くのローカル線は、そこそこきれいな道路が敷かれていたために廃止されたのである。そういう意味で、深名線は、ローカル線のなかのローカル線といってもいい。また、こういう事情で廃止を免れている路線がほかにはないことから、「最後のローカル線」と呼ぶ人もいる。
深名線は深川と名寄を結ぶ一二一・八キロの長大線で、そもそもは木材の運搬や朱鞠内湖建設のために敷かれた路線である。その沿線には人家がほとんどなく、乗るだけで、北の大自然をじゅうぶん堪能できる貴重な路線である。
とくに北母子里では、昭和五三年二月に氷点下四一・二度を記録するなど、冬の厳しさは内地の我々の想像の及ばないものがある。私は一昨年の真冬にここを訪れ、厳しい寒さに震えたが、鉄道がなくなればもう訪れることもないだろう。
私は九月三日の最後の日に照準を合わせて北海道に渡った。
道東を周遊した後、私は網走を起点として、廃線跡を探訪することにした。網走から湧別までは旧湧網線、そこから旧名寄本線に沿って、紋別、興部を経由して名寄に至ろうというわけだ。
湧網線はいまから八年前に廃止された。その沿線には、網走湖、能取湖、サロマ湖の三つの湖があって、冬になると結氷して、北辺ならではの光景を車窓に楽しめたという。
一方の名寄本線は、興部までオホーツク海に沿って走るので、流氷を見るなら、この線に乗ればよかった。こちらは六年前に廃止されたので、湧網線同様、私は乗る機会を逸してしまった。
九月二日の昼過ぎ、私は網走を出発した。
国道二三八号をしばらく走ると、能取湖畔でサイクリングロードが右側に併行したが、そこを走る自転車はまったくない。このサイクリングロードこそが、湧網線の路盤の跡地なのである。跡地の再利用法としては妥当であると思うが、全区間に渡ってきれいに舗装されているのならともかく、部分的な措置なので、どこかお茶を濁したような印象が拭いきれない。
サロマ湖の湖畔を走り抜けて、湧別の市街地に入った。私はまず中湧別駅跡を訪れたいと思った。かつてこの駅からは、四方にレールが延びていたが、すべて廃止されてしまった。したがって道路標識のなかに「中湧別駅」を見つけることもできず、見当をつけて車を走らせるしかなかった。
ところが、駅を嗅ぎ付ける嗅覚は発達しているようで、一発で見つけることができた。鉄道が廃止されてなくなっても、その周辺の雰囲気はそう簡単に変わるものではないらしい。

中湧別駅
ぷっつりと線路が断絶。
時代の交代を象徴する風景である。
きれいに舗装された道路の傍らに、中湧別駅の黒ぐろとした跨線橋が目に入ったときは、少なからず感動した。私のイメージしていた北辺の駅の佇まいが、そこにそのままあったからである。
民営分割後、JRは国鉄時代の暗いイメージを払拭しようと、安易に駅舎に派手な塗色を施したり、取り壊して待合室だけの簡単なものにしてしまったりして、この駅のように、いかにも長い風雪に耐えてきたというような駅舎はほとんどなくなってしまった。
私はプラットホームに残されたベンチに佇み、往時に思いを馳せた。蒸気機関車時代の名残を偲ばせる煤けた天井、赤茶けたバラスト、そして低いプラットホーム、そのどれもが懐かしい。
駅から延びていた線路の跡には、新しく道路が敷かれていて、その両側には、あまりにも現代的な建築の公民館と植え込みに囲まれた大きな駐車場があった。モータリゼーションの到来と鉄道の時代の終焉を象徴する光景である。
この中湧別駅から北へ五キロほど行ったところに、かつて湧別駅があった。この駅はどん詰まりの終点で、この二駅間の運転も他の区間と同じ平成元年に終了した。廃止される直前、中湧別・湧別間には、一日二往復しか列車が運転されていなかった。
ここに暮らす人はどんな生活を送っているのだろう、と地図と時刻表を開きながら思いを巡らせたのを思い出す。湧別はそんな駅のひとつだ。
湧別駅はもともと小さな駅だったこともあって、中湧別駅のように簡単に発見することができない。この辺りではないかとうろうろするが確証はない。広い道路の向かい側に消防署があって、署員が植え込みを剪定していたので、その人に尋ねた。
「この辺りに以前、湧別という駅がありませんでしたか?」
「ここですよ」
「ここ、ですか」
「そうですよ。あそこに記念碑というのかな、碑が置いてあるよ」

湧別駅跡
跡地には消防署が。
そこには「湧別駅の跡」と彫り抜かれた黒い御影石があった。それはまさしく駅の墓標であった。
それからふたたび国道二三八号に出て、車を北西に走らせた。道路に沿って名寄本線の路盤の跡が併行している。時折、錆びるにまかせた鉄橋が小さな川に架かっているのが見えてゾクゾクする。
ほどなくして、紋別の市街地に入った。九月の初めだというのに、午後三時をまわった空には、すっかり秋の気配が濃厚である。ときどき垣間見える港は、色彩もおぼろげに、それはまるで冬の訪れを感じさせるような寒々とした寂しい光景であった。じっさい窓を開けて走っていると、風が冷たく感じられるようになってきた。
例の嗅覚を働かせながら、紋別駅の跡地を探ると、瀟洒な建物のバスターミナルにたどり着いた。建物の中には旅行会社も入っていて、紋別の交通の中心として機能しているようだ。
駅の跡地はここかと尋ねると、職員は向かいの空き地だと教えてくれた。行ってみると、更地に雑然と車が数台置いてあった。昔を偲ばせるようなものは何もなかった。
レールがどこに敷かれていたのか気になったので、通りすがりのおばさんに尋ねると、
「どこだったかねえ、忘れてしまいました」
とのこと。仕方がないので、ここではないかと思われる新しい道路を歩いていると、傍らに「メモリアル通り」という小さな看板が立っているのを見つけた。
興部は紋別から二十キロほどで、二十分ほどで着いた。ここから名寄本線は山に分け入り名寄に向かう。
興部の市街にさしかかり間もなくすると、サイクリングロードが交差した。駅は近いなと思い、車を道路端に停めた。サイクリングロードをこちらに走ってきたおじさんに駅の跡の所在を尋ねた。
運がいいことに、おじさんは民営分割されるまで、興部駅の職員をやっていた国鉄OBであった。いい機会だと思い、いろいろと気になっていたことを尋ねると、大きな声で事細かに説明してくれた。話好きな人らしく、話題はしだいに横道にそれ、そして大きくなり、国鉄の民営分割をめぐる罪悪や政治家の無策など、ついには天下国家の治め方まで大声で語り始めて止まらなくなった。
ともかく、おじさんに教えられたとおり道をたどると、興部駅跡に着いた。跡地はバスターミナルになっていた。ちょうど名寄行きのバスが出発するところであった。廃止された列車の代替として運転されているのだ。バスは帰宅途中の高校生で混雑していた。
今日はこのあと、中興部、上興部に立ち寄ってから名寄に向かおうと思う。この二駅だけは今も駅舎が保存してあると、さきほどのおじさんから聞いたのだ。

中興部駅跡
登下校の高校生で賑わった駅も今は昔。
中興部駅は国道から小道を少し入ったところにあって、一度は見過ごして通り過ぎてしまった。
かつて駅舎であった木造の建物のなかは、うす暗くがらんとしていた。足を踏み入れ、辺りを見まわすと出札口に一冊のノートが置いてあった。ページをめくると、ここを訪れた人の感想や思い入れが書かれている。書き込みの日付を見ると、この日もすでに一人訪れているのには驚いた。
レールも枕木も撤去された路盤には、雑草が伸び放題に伸びていて、降りることもはばかられる。十年前の今ごろの時間には、帰宅途中の高校生で賑わったのだろう。今となっては、来る列車もなければ、訪れる人もほとんどない。

上興部駅跡
構内に「ここは汽車は通りません」
の文字が見える。
勘違いして列車を待つ人が
いるとでもいうのだろうか。
つぎに訪れた上興部駅は、駅の内部が資料館になっていた。このような措置は中湧別でもなされていたが、土曜日は管理している役所が休みなので、見ることはできなかった。
また、駅にはディーゼルカーが一輌、静態保存されていた。車内の座席は撤去され、畳が敷かれている。旅人に一夜の宿として無料で提供されているのだ。
プラットホームには、線路のポイントの切り替えレバーがあった。一本倒してみたが、これほど重いものだと思わなかった。そしてその背後には、一枚の看板が掛けられていて、そこにはこう書かれていた。
「ここは汽車は通りません」
