最後のローカル線:一 鉄道少年の悔恨

私が小学生のころ、鉄道ファンはクラスに何人もいた。当然私もそのひとりだった。時刻表を眺めては、行ったことのない土地に思いを馳せたり、小遣いを貯めて買った鉄道模型を部屋で走らせたりして楽しんだものだった。
ちょうどそのころ、赤字にあえいでいた国鉄が、その打開策として「いい旅チャレンジ2万キロ」というキャンペーンを打ち出した。知っている人も多いと思うが、平たくいえば、国鉄の全線に乗ってしまおうという企画である。興味のない人にしてみれば、なにがおもしろいのか理解に苦しむかもしれないが、私たち鉄道ファンは、このキャンペーンにすんなりと取り込まれていった。
とはいっても、小学生の私たちには、いくら子供料金だとはいえ、そうやすやすと列車に乗って旅をする余裕はない。ましてや地方の鉄道に宿泊付きで出かけるなどとは、当時の私には、とても親に言い出せないくらいの遠い憧れであった。そこで、大きくなったら、すべての路線を乗りつぶしてやろうと諦め、日帰りで行ける東京近郊の鉄道に乗りに出かけた。
最初は八王子と高崎を結ぶ八高線であった。日帰りの旅から帰り、八王子と倉賀野(八高線の厳密な意味での終着駅)で撮った証明写真をチャレンジ2万キロの事務局に送ると、ほどなくして会員証と一線区乗車の賞状が送られてきた。これは私の宝物になった。
それから、青梅線、五日市線、横浜線など近場の路線を友達と乗ってまわって、中学二年生のときには、二十線区に到達していた。一日中列車に乗って家に帰ると、時刻表の索引地図にその日乗った区間を蛍光ペンでなぞり、ひとり悦に入ったものだ。
ところが、中学の後半から高校にかけて、私の興味の対象は、いつのまにか鉄道から離れていた。しだいに音楽や歴史の雑誌が、毎月買っていた時刻表に取って代わり、休日に近郊を旅行することもなくなってしまった。
その後、大学受験が終わってひと息ついたころ、旅行でもしようかという気分になって、久しぶりに時刻表を手にした。
懐かしいなと思いながら、巻頭の索引地図をぱらぱらとめくっていて、北海道のページを開いたとき、私は唖然とした。これまで駅が数珠つなぎになっていた路線が掃いて捨てたように、きれいさっぱりとなくなっていたのである。いうまでもなく、赤字ローカル線として廃止された結果である。私も当然、ニュースや新聞で一連の経過をぼんやりながらも知っていたのだが、実感として迫ってきたのはこのときが初めてであった。
私は古い時刻表を引っ張り出し、失われた鉄道のダイヤをながめて悲しみ、そして深く後悔した。乗っておけばよかったといまさら思ってもはじまらない。廃止された鉄道が復活することはありえないのだ。なにか取り返しのつかないことをしてしまったような重苦しい気分に沈んだ。
新しい時刻表をさらにながめていると、かつて憧れていた夜行列車やよく話題になったユニークな経路をたどる急行列車も廃止になっていることがわかった。
このことを相変わらずファンを続けていた古い友人に尋ねると、列車のワンマン運転化や無人駅の増加などが現在進行していることなど、今日の鉄道を取り巻く暗い状況についても話してくれた。それを聞いて私の驚愕はいっそう深まり、いてもたってもいられなくなった。私が全線完全乗車にふたたび挑んだのはこのときであった。
それからというもの、まとまったお金ができると、とにかく列車に乗りに出かけた。ときには観光名所も訪れたが、ほとんど車窓を眺めていた。何日か列車に揺られて帰ると、以前やっていたように蛍光ペンで路線をなぞった。次はどこに行こうかと、毎日そんなことばかり考えていた。

上野駅にて(著者)
旧国鉄全線完全乗車達成!
そして平成6年10月6日、私はついに旧国鉄全線の完全乗車を成し遂げた。その感慨はひとしおであったが、それ以上に、もう乗れなくなっていた路線への憧憬はいっそう深まり、索漠とした心は決して満たされることはなかった。
それを少しでも埋めようというのか、私はそれから廃線跡を訪れるようになった。しかし、失われた鉄道の跡は、あまりにも露骨に時の流れの儚さを見せつけるだけで、有効なセラピーとはならなかった。この悔恨は生涯負い続けるのだろう。
