駅の記憶

第1回 区界旅館(岩手県)

○平成17年6月3日

○区界旅館 小笠原六太郎さん(79) タエさん(73)

■区界駅へ


区界という駅は、難読駅名の一つとして子供のころから親しみを覚えていた。単なる地形的な境界というよりも、どこかあの世との境目のようなイメージを抱いていたものだ。
この区界の駅前には、その名も「区界旅館」という旅館がある。私はこれを『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(大穂耕一郎著)という本で知った。その後、大穂さんとは交友を深めるようになり、彼からの推挙もあり、気候が良くなったら出向いてみようと年初から計画していた。
6月3日、この日は朝8時過ぎの東北新幹線で旅立った。新幹線を新花巻で下り、そこから釜石線に乗り換えた。遠野、釜石、宮古と乗り継ぎ、区界へ。
到着したのは、午後5時過ぎ。2両編成のディーゼルカーが到着した山の間の小駅には、すでに反対方向のディーゼルカーが到着していた。1日3往復ほどの列車しかない区界駅はつかの間の活況を呈していた。しかし、下車したのは、私とその同行者の2名。駅長の笑顔に迎えられながら、易者を出て、駅正面にある旅館に投宿した。

■「汽車を止めるのは、保線の恥」

◆鉄道は二本のレールで、あの鉄の巨体を支えている。ちょっとした障害物や歪みで大事故を引き起こしてしまう。そのため、その昔の鉄道には警備兵が付き、その安全な運行が図られた。その仕事は、その後、保線係が担うことになる。小笠原六太郎さんは、極寒の地で鉄道の運行を守り続けた保線の人である。

―― 六太郎さんは、山田線で保線の仕事をされてたと聞いたのですが、どんなお仕事なのですか?

六太郎さん 保線は線路を守る仕事。雪が降ったら直す、線路が悪くなったら直す。汽車が歩くためには、保線が必要なんだ。寒くなると、線路が悪くなるんです。冬になると、線路が上がっちゃう。そうすると、汽車が歩けなくなるから直すんです。

―― 冬になって、線路が冷たくなると上がるんですね?

六太郎さん そう。寒くなると、線路が冷えて上がってしまうんだ。両方上がればいいんだけど、片っぽだけ上がったり。だから、高いところと低いところを一緒にしないと、電車が脱線しちゃう。

―― 脱線ですか、それは緊張を強いられる仕事ですね。

六太郎さん しんどいよ。寒いところやるのは。昔はレールが小さかったんですよね、30キロとか。1メーター当たりの重さが30キロなの。今はだいたい60キロ。今は50、60キロ。だから、当時は今の半分しかなかった。

―― レールが軽いと曲がりやすいというわけですね。冬場は特に?

六太郎さん そうだね。蒸気機関車だったから、今と違って重量があるから。今はレールが大きいから寒くても上がらないけどね。昔は軽かったから、ちょこっと寒かっただけでも上がっちゃって。

―― レールが上がり過ぎて、汽車が走れないなんてことはありましたか?

六太郎さん あったねぇ。そういうときは、いつもは50キロで走っているのを、40キロに落とすとかね。線路がそういう状態になると、普通に走らせられないからね。そういうときにスピードを出すと、脱線しちゃうから。

―― 責任重大ですね。

六太郎さん 保線の人は「汽車を止める」というのは大変なことだったんです。どんなことがあっても汽車は止めない。今はちょっと何かがあると、すぐに止めちゃうけど。当時は「汽車を止めるのは、保線の恥」っていう感じで。責任問題だったんですよね。

―― 保線のプライドですね。ところで、ふだんはどちらに詰めていらっしゃったのですか?

六太郎さん 詰め所があったの。(区界)駅のすぐ近くに保線の詰め所があるんです。

―― レールのパトロールはどのように行われるのですか?

六太郎さん 上の人が見るんだ。毎日。どこが悪いが見てる。当時は、盛岡と区界の間だったね。各駅に保線があったんです。だから大体、8キロくらいを10人で担当してた。

―― この山田線は全長約110キロ、となると保線係の方は150人くらいいたんですね。

六太郎さん 各駅だからね。今はほとんど業者に頼んでるからね。今はね、(レールの検査は)機械でやってる。大きな機械でね。

―― 事故はありませんでしたか?

六太郎さん 事故、ありましたよ。シロス峠でね。あの時は何だったべかな? 雪崩かな? 機関車が倒されたことがあっただよ。僕が入る前だったけど脱線して、機関士が死んだのかな? 今も、供養塔があるよ。

■駅前旅館から見た鉄道

◆終戦直後の昭和二四年、満州からの引き揚げ第一陣が区界に到着した。彼らは区界高原に入植し、開拓にあたった。長野県出身者が多かった。戦後のベビーブームを受けて、区界の地にも分校ができた。入植者が携わったのは酪農。当時の写真は、当時の活気ある区界を写し出す。

小笠原夫妻は、元来この地の出身。大勢の開拓者の入植によって沸き立つ昭和36年、以前からあった旅館を買い取って、「区界旅館」を営むことになった。

―― 旅館を始められたのはいつですか?

六太郎さん ここは、昭和36年かな?

タエさん その前からやっていましたけどね。

―― 小笠原さんの前に旅館をやっていらっしゃる方がいたんですね。

タエさん この前の敷地で。今は駐車場。

六太郎さん 前の人は「マル通」やっていたんだよ。

―― マル通?

六太郎さん 日本通運の貨物ね。先代は、旅館と国鉄貨物を経営していただ。それが昭和30年代に入って、貨物が無くなったんです。それで、息子さんが盛岡に引っ越すからっていうことで、ここが空いたもんだから。

―― それまで、ご商売は?

タエさん なーんも。商売なんかやったことなかったから、大変だったぁ。よくやってきたもんだ。

―― 今年で44年になりますね。

タエさん 44年! うわー、よく働いたわ。

―― これまでどんな方が泊まりましたか?

タエさん 工事の人がいたね。そうだねぇ、みんな優しい人だ。ホント、いろんな人がいた。工事の人で、入れ墨を入れている人とかね。でも、チンピラは恐いけど、ホントのヤクザは優しかったね(笑)。入れ墨を見せられて「びっくりしたでしょ?」とか言われるけど、こっちはなんもわからないもん。だから恐くなかった。私らは全然関係ないけど、中ではいろいろケンカとかね、あったよ。いろんな人を泊めてきたもんだ。

―― 盛岡は車だと、30分くらいでしょうか。汽車で行かれることはありますか?

タエさん いないね(笑)。

―― 一番最近乗ったのはいつなんですか?

タエさん ないねぇぇ。

六太郎さん 今は、どこの家にも車があるからね。昭和40年頃は、まだ車を持っている人が少なかったけど。

―― 山田線は赤字ローカル線ですが、岩泉線もありますね。

六太郎さん 岩泉線は道路がないから。だから、バスが通れない。バスが通れば廃止になるんでしょうが。開通した当初から「廃止、廃止」ってね(笑)

タエさん 開通した時から、廃止だなんてね(笑)。

―― 議会で「猿でも運ぶのか」と言われた山田線ですが、実際は物流の大動脈でした。宮古からの魚も運んだんでしょうねえ。

六太郎さん 貨物は魚も積んどったけど、木材が多かったかね。あと粘土。昔、区界の一つ手前の浅内というところは、開通になっていなかったんだけんど、粘土がとれるって。

―― へえ、粘土が。

六太郎さん 資源を運ぶために造ったんだ。昭和40年、50年になって、出なくなったけど、そういう関係が出てきたから、山田線廃止という問題が出てきたんだね。鉄鉱石も出たんだよ、それを釜石まで戦時中は運んでた。戦後になって無くなったけど。ここも、鉱山から駅まで運ぶリフトがあった。今だったら、車で運ぶんだろうけど。

―― じゃあ、駅で積み替えて?

六太郎さん そう、そこから釜石に持っていって精錬するわけですね。重要だったんですよ。木材にしてもね。東京方面さ、持ってった。木材は貴重なもんだった。35年くらいまでは盛んだったんだね。

※山田線列車転落事故 1944年3月12日。
雪崩で崩壊した鉄橋に下り貨物列車(C58形式蒸気機関車と貨車5両)が突っ込み谷底へ転落、機関士1名が死亡。機関助士1名も負傷した。機関士は、瀕死の重傷を負いながらも、事故拡大防止のため機関助士に緊急連絡を指示し、その直後に息絶えた。これは後に「大いなる旅路」(三国連太郎主演)として映画化された。